あれから9年: 震災と僕と福島

2011年3月11日から今日で9年。

今日は様々な復興や追悼番組がやっていましたね。

まずはじめに、被災された方々のご冥福を祈るとともに一日も早い表面的でない本当の意味での復興を心からお祈りします。


今日は少し暗い話になりますが、震災を通して起こった僕の心情の変化を書きたいと思います。本当に一個人の話且つ長くなりますので、ご興味ある方のみお付き合いください。



あの地震が起こった時、僕はまだアメリカにいました。

なのであの時に日本にいた人が感じた揺れや不安も社会的混乱や分断もその場で僕は経験していません。


実際に地震を体験した人、家族や友人を亡くしてしまった人、震災以前の生活ができなくなってしまった人も多くいる中で、その場にいなかった僕の経験や言葉にどれほどの意味があるかわかりません。

ですが今日は僕の人生を通して感じた311の震災、そして僕と福島について語ろうと思います。

①2011年3月11日

②正しい情報と正しい対処の相違

③震災から9年

①2011年3月11日


あの地震が起こったとき、僕はまだアメリカにいました。


サンディエゴにある日本食のレストランで友人と食事をしていたとき、日本で大きな地震があったと居酒屋のTVと臨時ニュースが流れたことで地震が起こったことを知りました。


そして大きな津波が太平洋側に来ることを知り、家族の安否の確認のため急いで家に戻りスカイプで家族に連絡を取りました。


千葉に住む両親には連絡が取れ、すぐに安全を確認できました。


しかしながら、福島に住むおじいちゃん・おばあちゃんや親戚には連絡がつかず不安な夜を過ごしました。


その次のは急遽日本人のみ学校が休校になりました。


僕は家に篭り、TV越しにしか入ってこない日本の情報に不安や焦りを感じながらただただニュースの続報と親戚の安否確認の連絡を待っていました。が、次に襲ってきた不安は原発事故と放射能でした。


アメリカのニュースでも地震と放射能に関してはかなり報道されていて、日本政府が「直ちに人体に影響はありません」と連呼している中、


アメリカでは福島原発から漏れた放射能が太平洋に広がっていくシュミレーションの映像とその危険性を繰り返し報道していました。


その情報のギャップにも不安を感じながら、海外から僕にできることは英語と日本語を使い正しい情報を得て、それを家族や友人に共有することだと信じひたすら色々と調べていました。

Spreading radiation from Fukushima


放射能の人体に対する影響、放射能の排出法や予防法、甲状腺癌、セシウム、プルトニウム、ストロンチウム、遺伝子異常、食の安全、ホットスポット、年間被曝線量、避難…




しかし放射能を調べ始めると、それはまるでパンドラの箱を開けたように日本のみならず世界の隠された闇や構造が僕の目に入ってきました。


チェルノブイリ、広島と長崎の原爆、六ヶ所村、原発反対・推進、第五福竜丸の被曝、ガイガーカウンター、メルトダウン、プルサーマル発電、計画停電、原発村と利権、安全神話、フリーエネルギー、自民党のメディア戦略、黒い雨、読売新聞の正力松太郎、核の平和理論、プロパガンダ、忌野清志郎のサマータイムブルース、核開発、劣化ウラン弾、ホピ族の予言、民主主義、54基の原発…




震災をきっかけに自分の人生の考え方が変わったという人は多いと思います。


日本にいた皆さんは実際に命の危険を感じたり、大切な人を失ったり、当たり前の生活が当たり前でなくなったことで今まで以上に人生について否が応でも深く考えるきっかけになったと思います。


僕の場合は日本にいなかったため少し違う形ではありますが、家族や友人のために如何にして地震と放射能から生き残るかの正しい情報を得るための行動をきっかけに


自然の脅威、命の儚さ、そして社会の闇を知り、自分の人生が大きく変わりました。


②正しい情報と正しい対処の相違


正しい情報を得ようとした僕が次に直面した問題はその伝え方でした。


千葉にいる両親は実家の壁に大きな亀裂が入った程度で済みました。しかしながらその当時僕のおじいちゃんとおばあちゃんは福島のいわき市に、親戚は福島市に住んでいました。


おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいた家は、津波には流されませんでしたが、地震により半壊してしまったため親戚の住む福島の家に移りました。
(その家は津波で家が流されてしまった人に安く売ったそうです。)


福島の親戚の家では1ヶ月の間電気は通らず水道も止まったままの状態で、その期間シャワーを浴びずに身体をタオルで拭いていたそうです。


聞けば聞くほど日本とは思えない状況に、話を聞いた時絶句したのを覚えてます。


放射能の脅威を調べた結果、当時同じくサンディエゴに住んでいた姉と僕が出した結論は福島は放射能汚染により避難した方がいいというものでした。



政府の行う計画停電食べて応援、原発の後に急遽変更されていく年間被曝線量限度、原発事故に限らず環境汚染等による人体被害への過去の政府や大企業の補償対応等どれをとっても疑問と不安に感じることばかりだったからです。


しかし皆さんご存知の通り、その当時世間では「風評被害」や「放射脳」なんて言葉が使われるようになり、政府からの情報も信頼性が低く、経済優先の原発推進派と隠されていた脅威を知り原発反対デモを行う人たちで分断はどんどん広がっていきました。


その反面、日常では放射能や原発の話をすると場の雰囲気が盛り下がると少しづつ話す人は少なくなっていき、次第にみんな考えなくなっていきました。


もしくは考えていても口に出さなくなっていきました。


震災後日本に帰ってきた僕の感じた東京のイメージはこのような感じでした。(おそらく世代や地域の差もあると思います。)



しかしながら福島に住む親戚や僕と姉にとってはまだ話すべきことが残っていました。


それは親戚を福島から避難した方がいいと説得することです。特に僕の姉はジャーナリズムを大学で専攻し、原発事故や政府の対応にも詳しかったため何度も話し合っていました。

原発関連の姉のアート作品
原発関連の姉のアート作品


しかしながら親戚は小学校の教師をしているため、生徒がいる手前先生が初めに避難すると不安を煽る形になってしまうため放射能の危険性は理解しているが避難はできないという決断でした。


おじいちゃんやおばあちゃんは余生を何の思い入れもない地域に引っ越して過ごしたくない、放射能があったとしても愛着のある福島に残りたいという考えでした。



「直ちに人体に影響はありません。」その言葉の通り、目にも見えず、すぐに表に影響がでてこない放射能に対する対応は、誰一人答えを知らず、また一人一人の状況により答えの変わってくるものでした。


自分や家族を守りたいというポジティブな感情から起こる不協和音の存在を人生で初めて僕は実感しました。


また人生では時に払拭することのできない不安の上に決断を決めなければいけない場面があることも知りました。


正しいかどうかというだけの正義の無意味さや相手のためを想った行動でも対立や反発を生んでしまう悲しさ。


その時の選択の正しさを知るには5年10年は待たなくてはいけない時の残酷さ。覚悟と決断の上で待つ運命に対する不安と恐怖。


21,2歳の僕には全てが初めの感覚でした。また親戚やおじいちゃんおばあちゃんの決断や考えを聞き、腹を括るという本当の意味を理解しました。


③震災から9年


おかげさまでおじいちゃんもおばあちゃんも、そして教師をしている親戚も今現在元気に生活しております。


先週に昨年結婚した奥さんを連れて福島の親戚に会いにいきました。
足が悪く東京の結婚式には参加できないおじいちゃんに奥さんの顔を見せに行くためです。


その日の夜、親戚みんなで席を囲みながらお酒を飲みました。


そしておじいちゃんと日本酒を飲みながらおじいちゃんの子供頃や若い時の話を聞きました。


おじいちゃんは子供の頃気仙沼に住んでいて、海は本当に綺麗で潜れば水族館のように魚がたくさん見れたそうです。


また漁師として働いていたおじいちゃんは、子供の頃から釣りやモリで魚やサザエやウニを捕まえてはみんなの夕飯の足しにしていたそうです。


しかしその後の高度経済成長期に伴い生活排水の影響で魚はどんどん減っていき次第に海は汚れていってしまったそうです。




そして2011年の原発事故で海は放射能に汚染されてしまいました。



時代の流れだからしょうがないと笑いながらも、昔は本当によかったと嬉しそうに、そしてちょっぴり寂しそうにほろ酔いで話すおじいちゃんの話を聞きながら、いつまでも元気でいてほしいなと心底思いました。


最後に僕のおじいちゃんの震災にまつわる話を一つ。




地震のあった当日、おじいちゃんは腰に痛みを感じていつもの散歩をやめたそうです。

もし散歩に行っていたら時間的に津波に流されていたかもしれません。

奇跡的な偶然の上に今があるんだなと本当に思います。



そのおかげ僕の奥さんも紹介することができました。

福島の五色沼に行った際に撮った日輪


申し訳ないですが、今回の記事には最終的な結論や答えはありません。


ただ一つ最後に書きたいことは、2011年の地震と原発事故を通して僕は人生の複雑さや難しさを知り、決断や腹を括るための覚悟を学びました。


今後の人生でその学びを少しでも活かして自分や奥さん、友人や家族、そして地球の環境を少しでもよくできるよう精進していきます。そしてそれを忘れずに日々を生きていきます。


コロナウィルスや経済危機、第三次世界大戦やシンギュラリティなど今後の世界には想像のつく悪い結末がたくさんありますが、目を背けず正面から立ち向かい最後まで正しさと幸福の追求をしていきたいと思います。


最後にジャーナリストとしても活動している姉の原発とアートに関する記事を下記に記載します。


僕の学生自体に作った荒削りの作品もありますので、ご興味ある方はぜひ見てみてください。


Post-Fukushima Stories

https://postfukushimastories.wordpress.com/

姉の作品


https://postfukushimastories.wordpress.com/2013/03/08/post-fukushima-stories1-by-shoko-hachiya/

僕の作品


https://postfukushimastories.wordpress.com/2013/07/03/15-by-shoto-hachiya/

Sam Lakeの作品


https://postfukushimastories.wordpress.com/2013/04/21/11-by-sam-luke/


書いていたら日付が変わってしまいましたが、今日もありがとうございました。


またお時間がありましたらお付き合いをお願いします。


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